茂木誠・鈴木悠介先生の世界史アクティブ・ラーニング公開授業に参加してきました(2)

「茂木誠・鈴木悠介先生の世界史アクティブ・ラーニング公開授業に参加してきました(1)」https://tarikh.hatenablog.com/entry/2019/03/10/211100  に引き続きです。

 

茂木先生は、「朝鮮戦争を当事者の立場で考えてみよう!」というテーマでした。

 

  テーマ設定をされた理由が面白かったです。茂木先生が、高校で教員をなさっていたとき、授業をしても全員寝る。そこで生徒に感想を書いてもらった。「昔の話はやめてほしい」とのこと。歴史の授業で。生徒が、歴史を自分のことに感じれていないわけです。そこで、今回の授業では、歴史の当事者たちには、どのような選択肢があったのかを検討しながら、朝鮮戦争を学ぶということが行われました。あの茂木先生に生徒が全員寝たという苦い経験があることそのものが面白かったです。

 

授業の流れ

・グループごとにソ連中華人民共和国北朝鮮アメリカチームに分ける

 ↓

・講義

・当事者の立場で考える

 ↓

・実際どうなったのかを講義で学ぶ

 

  これを繰り返す形で授業は展開されました。講義の部分は、流石というしかありません。情報量が多いのにそれぞれが関連性を持っていて情報量の多さが気にならなかったです。情報量が多くても整理されて示されれば理解できるわけですね。

    でも、話がうまいのはしっていましたよ。ポッドキャストを時々、聴いてましたから(笑)

  

   今回の本題であるアクティブ・ラーニングは、「問い」が重要です。いくつか紹介してみましょう。

 

ソ連の勝利は、戦後(※注:WW2)の世界をどう変えるだろうか?」

ソ連の対日参戦は、戦後の東アジアをどう変えるだろうか? アメリカはこれにどう対応すべきか?」

「(※北朝鮮に対する武力制裁決議について)ソ連スターリン)はどう対応すべきか?」

「(※朝鮮戦争で被害が広がる中で)米国(トルーマン)はどう対応するべきか?」

 

このような課題を3分間ほど個人で考えてから2分程度でグループで検討しました。

これらの「問い」は、「エンパシー」が重視されていると私は、感じました。

「エンパシー」の重要性は、文科省で教科調査官をなされた原田智仁さんも強調されています。

 

 

 「エンパシーを英和辞典で検索すると「同一視、共感」とあり、シンパシーと同一の概念のように見えるが、欧米諸国では全く異なる概念と捉えられ、歴史教育ではシンパシーではなくエンパシーを重視するべきことが強調されている。オーストラリアの歴史カリキュラムでも、歴史の主要概念の1つにエンパシーが掲げられているが、「出来事を当事者や参加者の観点から見て理解する能力」と定義し、シンパシーやイマジネーションが学習者である「私」の観点からの共感や想像であるのとは明確に区別している。日本では国語教育の影響もあって、歴史上の人物の思いに共感させたり推測させたりしがちであるが、それはシンパシーにとどまる。エンパシーは自分がその人物の立場にいたらどう考え、どう行動するかを問うのである。そこに生徒を過去の学習に向かわせる一つの仕掛けが読み取れる。」原田智仁『中学校 新学習指導領 社会科の授業づくり』明治図書,2018,pp95–96.

 

 

  今回の茂木先生もトルーマンスターリンということを明記することで「自分がその人物の立場にいたら」ということを打ち出されていました。「エンパシー」重視の授業をイメージする上で大変刺激になりました。実際、高校教員で参加されている方が、「トルーマンは、どう対応するべきか」という問いに「中国への核の使用」という考えを述べられていました。高校教員なわけですから、トルーマン朝鮮戦争で核を使用しないことは知っているわけですが、あえて「自分がトルーマンならどうするのか」で歴史を考えていました。エンパシーを育む授業の醍醐味です。

 

 私が今後エンパシーでの課題になりそうだと感じたのは、生徒が課題に取り組むことで「ありえたかもしれない過去」がたくさん出てきます。この扱いをどうするのかです。茂木先生は、生徒に意見を出させたあと、「では実際にはどうだったのか」を講義で説明されていました。実際に起こったことの説明は、可能です。E・H・カーも「実際の話、歴史家は、事件が起こってしまわないうちは、これを不回避的とは考えないものであります。歴史家たちは、選択が自由であるという仮定の下に、登場人物が進み得た別のコースを論じることがよくあります。けれども、なぜ結局は特定のコースが選ばれるようになったのか、それを正確に説明するという仕事を進めているのです。」E・H・カー『歴史とは何か』岩波出版,1962,p p140–141. と述べています。結局、歴史というのは起こったことを中心に説明されるものです。

 

 でも、実際に自分が授業を受けてみた結果、自分の意見へのこだわりが生まれ、「なぜそれが起きなかったのか」が気になりました。一生懸命考えた結果と現実が違ったら、「なんで!?」ってなりますよね。授業を受けてみないとこの感覚は気がつけませんでした。

   あながち外れた問題意識でないとも私自身は思っています。歴史学者の中にもニーアル・ファーガソンの「仮想歴史」のように「それが本来いかにしておこらなかったのか」を客観的に記録しようとする歴史研究も存在します。エンパシーを育む歴史教育が広がったとき「ありえたかもしれない過去」が問題になるのではないかなと思えたことが、今回参加した私の中での成果でした。

 

 

茂木先生・鈴木先生ありがとうございました!!