反証しやすい「本質的な問い」が大事なのではなかろうか

渡部竜也『社会科授業づくりの理論と方法』で後付けで「本質的な問い」を設定する提案がなされてます。

 

渡部竜也は、「「本質的な問い」とは、はっきりとした回答はないオープンエンドな問いで、かつ主権者として、市民として、私たちが社会で生きていくために、考えていかなければならないような性質の問い」。(前掲書 p124)と定義していて、特に異論はないんです。

 

 ただ、前半部分でさんざん森分を引用しながら科学哲学を援用してきたのに、「本質的な問い」では科学哲学の議論がなされていないことに物足りなさを感じます。

 

 本書の「科学的探求学習」を扱った章のベースには、ヘンペルなどの科学哲学があります。歴史(社会科)を科学哲学的に考えていこうとする森分の議論が、私は結構好きだったりします。

 史学史から考えると、マックス・ウェーバーの時代には、「歴史は、芸術か? 科学か?」という論争があり、それを西南ドイツ学派のヴィンデルヴァンドやリッケルトが、科学を法則定立的な科学と個性記述的な科学に分けて、歴史学は後者の科学なんですよと言ってくれたおかげで、歴史は科学だと自信を持つことができたわけです。こういうの科学二元論と言います。

 ところが、科学二元論って気持ち悪いですよね。「自然科学とは別の科学の在り方なんですよー」と言っても、「それ科学なの?」ってなります。やっぱり、統一的に語りたい。重要になるのがヘンペル。彼は、「科学的説明とは何か?」を研究した哲学者で「演繹的・法則的モデル」などの説明モデルを提案しています。「推論による説明」などとも呼ばれます。

 

 ヘンペルによれば説明とは、以下の4つの条件を満たす推論のことをいいます

 

①その推論は論理的に妥当な演繹である。

②説明甲は少なくとも一つの一般法則を含んでおり、被説明項を導き出すものではなくてはならない。

③説明項は経験的に確かめられることが可能なものでなくてはならない

④説明項に含まれる文は真でなければならない。 

戸田山和久『科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる』p103

 

 一般法則と前提条件(個別事実)から被説明項が演繹されるのが科学的説明だとされます。ただ、歴史に当てはめたとき自然科学のような説明ができるわけではないので、余白をもった「説明のスケッチ」となります。この「説明のスケッチ」を重視したのが森分孝治及び、それを発展させた渡部竜也になります。

 

で、このあたりに「本質的な問い」の難しさがあると思うんです。

野家啓一『歴史を哲学する 七日間の集中講義』を参照すると次の記述があります。

 

「実際、ヘンペルといえども、この演繹モデルが字義通りに具体的な歴史的説明に適用できると考えたわけではありません。歴史的説明においては、自然科学のように明示的に「法則」を取り出せることはむしろ稀です。第一の理由は、その法則が余りにも自明だからです。たとえば、「一四世紀半ばにペストが蔓延することによって、ヨーロッパの人口は激減した」という説明は、明らかに「ペスト菌に感染した人間は死亡する可能性が高い」という統計法則を前提していますが、このような法則に言及する歴史家はまずおりません。」

 

この指摘を考えるなら「問いの構造図」で導き出された教訓や法則が、自明すぎて「本質的な問い」が機能しない可能性があります。

 

 渡部竜也は、『コモングッドのための歴史教育』を引いて、導き出された教訓を「議論」することの重要性を示しています。でも、「右足を出して、左足を出すと歩ける。あたりまえ体操」では議論になりません。

 この点は渡部竜也『社会科授業づくりの理論と方法』では検討されていませんでいたが、この記事書いてる途中で森分が、『社会科授業構成の理論と方法』p102で「説明的スケッチ」と「統計的説明」「演繹的説明」を分けて、演繹的説明に対して「たとえば、「シーザーはなぜ死ななければならなかったのか」と問われた場合、「刃で胸を刺されたからである」というように、決定論的法則を用いて説明できるが、それは歴史学や社会科学で求められる意味のある説明ではない」と一刀両断していました。

 

 「本質的な問い」を議論や吟味する授業で民主主義的な資質を養うのであれば、今回歴史から導き出された教訓は、現代に活用できないと結論付けてもいいはずです。そう考えるのであればポパー反証可能性を意識したら作りやすくなるはずです。ポパーは、科学の営みを真理の探究ではなく、知識を反証することに求めた哲学者です。

 

(A)「水は摂氏100度で沸騰する」という科学的な理論があります。正しいでしょうか?

正確には正しくありません。富士山の山頂でこの理論をテストすれば100度以下で沸騰してしまいます。

そうなると、「水は摂氏100度で沸騰する」理論を修正する必要があります。どのうように修正しますか?このとき、(B)「水は海抜0mでは100度で沸騰する」と修正するのはよくありません。

 

(A)「水は摂氏100度で沸騰する」

(B)「水は海抜0mでは100度で沸騰する」

 

を比べるとどちらの方が反証しやすいでしょうか?

明らかに(A)の方が反証しやすいです。(B)で修正しても新しいテスト可能性を生みません。これを「免疫化の戦略」といい、理論を修正する場合は、より大胆で反証しやすい理論を求めるべきとされています。*1 

 

 「本質的な問い」でもより反証されやすい問いを提示することで、議論が活発化するのではないでしょうか。歴史を学習する中で、すでにたくさんの証拠や根拠を生徒が持っていて歴史的教訓を肯定しやすい状況です。それを反証しやすくすることで現代的な事例を自分たちで引っ張りだし、関連付ける契機になるのではないでしょうか。

 

【参考文献】

森分孝治『社会科授業構成の理論と方法』

渡部竜也『社会科授業づくりの理論と方法』

西脇与作『科学哲学』

野家啓一『歴史を哲学する 七日間の集中講義』

戸田山和久『科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる』

*1:参考文献:西脇与作『科学哲学』p150-151