宇沢弘文『自動車の社会的費用』岩波書店、1974

長らく欲しいかった宇沢弘文『自動車の社会的費用』が、ブックオフで100円棚で輝いていたので速攻で購入。岩波新書の緑にハズレはないでしょう。『自由と規律』や『ことばと文化』も最高。

なぜ、手に取ったかというと岩波新書80周年記念の企画で、経済学者の坂井豊貴が書いた「伝説のレーベル」というエッセイで本書が紹介されていたからだ。経済学者の中には、車の免許を持たない人たちがときどきいる。それは、本書を読んだからだという。そこまで衝撃的な本なのかと気になったいた。

 

  速攻で読んでみた。交通戦争と呼ばれた時代(出版は1974年)の中で書かれた本のため古さも感じたが、私もきっちり衝撃を受けた。本書の内容は、自動車が広がったことで。交通事故で亡くなる人が沢山いるし、環境被害や子供の遊ぶ場所が失われた。自動車の社会的費用を考えてみようじゃないか。というものです。基本的には、外部不経済を踏まえた社会的費用の算出を目的とした本です。

 

 ※ちなみに「外部不経済

外部不経済

がいぶふけいざい

external diseconomies

イギリスの経済学者A.マーシャルが用いた言葉で,市場を通じて行われる経済活動の外側で発生する不利益が,個人,企業に悪い効果を与えることをいう。外部不経済の代表的な例としては公害問題がある。かりに騒音公害があったとすると,その周辺の住民はその公害がなかったときに比べ不愉快な生活を強いられることになる。住民にとって公害は,なんら市場原理に基づかない経済的不利益をこうむることになるので外部不経済となる。経済政策的には,外部不経済をできるだけなくすこと,できれば外部不経済を市場価格に基づいて内部経済化することが課題とされている。出典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

 

とされています。

さて、私が衝撃を受けたのは、宇沢の「近代社会の原理」の捉え方です。

 

「次に各人が自らの思考及び目的を追求する自由が存在する。(中略)そのとき、各人は他の人々の市民的自由を侵害しない限りにおいて、行動の自由を認められる。他の人々の市民的自由を侵害するような行動を規制することがまた、国のなすべき最低限の責務であるということもできよう。」p132

 

とあり、ミルの他者危害の原則から自動車が外部不経済を引き受けておらず、道路沿線の住民に被害を与えている現状を批判しているわけです。なるほど!他者危害原則とは、こうも使えるのかと目からウロコが落ちました。最近の使われ方だと「学校で金髪にするのは、なぜいけないのか?」というのを他者危害原則から考えて、「誰にも迷惑をかけていないから自由だ」と考えるときに使われるイメージでした。

 

  しかし、直接、被害を与えているようには見えにくい自動車に対しても使えるのかという衝撃です。(自動車事故の場合は、直接目に見えますが) 面白い問いがある本は、すでにそれだけで価値がありますね。他者危害原則に広がりを持たせてくれた本書に感謝です。

 

名著なのでリンクを貼っておきます。自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47) https://www.amazon.co.jp/dp/4004110475/ref=cm_sw_r_cp_tai_Kp6HCb4BJ0EQQ

茂木誠・鈴木悠介先生の世界史アクティブ・ラーニング公開授業に参加してきました(2)

「茂木誠・鈴木悠介先生の世界史アクティブ・ラーニング公開授業に参加してきました(1)」https://tarikh.hatenablog.com/entry/2019/03/10/211100  に引き続きです。

 

茂木先生は、「朝鮮戦争を当事者の立場で考えてみよう!」というテーマでした。

 

  テーマ設定をされた理由が面白かったです。茂木先生が、高校で教員をなさっていたとき、授業をしても全員寝る。そこで生徒に感想を書いてもらった。「昔の話はやめてほしい」とのこと。歴史の授業で。生徒が、歴史を自分のことに感じれていないわけです。そこで、今回の授業では、歴史の当事者たちには、どのような選択肢があったのかを検討しながら、朝鮮戦争を学ぶということが行われました。あの茂木先生に生徒が全員寝たという苦い経験があることそのものが面白かったです。

 

授業の流れ

・グループごとにソ連中華人民共和国北朝鮮アメリカチームに分ける

 ↓

・講義

・当事者の立場で考える

 ↓

・実際どうなったのかを講義で学ぶ

 

  これを繰り返す形で授業は展開されました。講義の部分は、流石というしかありません。情報量が多いのにそれぞれが関連性を持っていて情報量の多さが気にならなかったです。情報量が多くても整理されて示されれば理解できるわけですね。

    でも、話がうまいのはしっていましたよ。ポッドキャストを時々、聴いてましたから(笑)

  

   今回の本題であるアクティブ・ラーニングは、「問い」が重要です。いくつか紹介してみましょう。

 

ソ連の勝利は、戦後(※注:WW2)の世界をどう変えるだろうか?」

ソ連の対日参戦は、戦後の東アジアをどう変えるだろうか? アメリカはこれにどう対応すべきか?」

「(※北朝鮮に対する武力制裁決議について)ソ連スターリン)はどう対応すべきか?」

「(※朝鮮戦争で被害が広がる中で)米国(トルーマン)はどう対応するべきか?」

 

このような課題を3分間ほど個人で考えてから2分程度でグループで検討しました。

これらの「問い」は、「エンパシー」が重視されていると私は、感じました。

「エンパシー」の重要性は、文科省で教科調査官をなされた原田智仁さんも強調されています。

 

 

 「エンパシーを英和辞典で検索すると「同一視、共感」とあり、シンパシーと同一の概念のように見えるが、欧米諸国では全く異なる概念と捉えられ、歴史教育ではシンパシーではなくエンパシーを重視するべきことが強調されている。オーストラリアの歴史カリキュラムでも、歴史の主要概念の1つにエンパシーが掲げられているが、「出来事を当事者や参加者の観点から見て理解する能力」と定義し、シンパシーやイマジネーションが学習者である「私」の観点からの共感や想像であるのとは明確に区別している。日本では国語教育の影響もあって、歴史上の人物の思いに共感させたり推測させたりしがちであるが、それはシンパシーにとどまる。エンパシーは自分がその人物の立場にいたらどう考え、どう行動するかを問うのである。そこに生徒を過去の学習に向かわせる一つの仕掛けが読み取れる。」原田智仁『中学校 新学習指導領 社会科の授業づくり』明治図書,2018,pp95–96.

 

 

  今回の茂木先生もトルーマンスターリンということを明記することで「自分がその人物の立場にいたら」ということを打ち出されていました。「エンパシー」重視の授業をイメージする上で大変刺激になりました。実際、高校教員で参加されている方が、「トルーマンは、どう対応するべきか」という問いに「中国への核の使用」という考えを述べられていました。高校教員なわけですから、トルーマン朝鮮戦争で核を使用しないことは知っているわけですが、あえて「自分がトルーマンならどうするのか」で歴史を考えていました。エンパシーを育む授業の醍醐味です。

 

 私が今後エンパシーでの課題になりそうだと感じたのは、生徒が課題に取り組むことで「ありえたかもしれない過去」がたくさん出てきます。この扱いをどうするのかです。茂木先生は、生徒に意見を出させたあと、「では実際にはどうだったのか」を講義で説明されていました。実際に起こったことの説明は、可能です。E・H・カーも「実際の話、歴史家は、事件が起こってしまわないうちは、これを不回避的とは考えないものであります。歴史家たちは、選択が自由であるという仮定の下に、登場人物が進み得た別のコースを論じることがよくあります。けれども、なぜ結局は特定のコースが選ばれるようになったのか、それを正確に説明するという仕事を進めているのです。」E・H・カー『歴史とは何か』岩波出版,1962,p p140–141. と述べています。結局、歴史というのは起こったことを中心に説明されるものです。

 

 でも、実際に自分が授業を受けてみた結果、自分の意見へのこだわりが生まれ、「なぜそれが起きなかったのか」が気になりました。一生懸命考えた結果と現実が違ったら、「なんで!?」ってなりますよね。授業を受けてみないとこの感覚は気がつけませんでした。

   あながち外れた問題意識でないとも私自身は思っています。歴史学者の中にもニーアル・ファーガソンの「仮想歴史」のように「それが本来いかにしておこらなかったのか」を客観的に記録しようとする歴史研究も存在します。エンパシーを育む歴史教育が広がったとき「ありえたかもしれない過去」が問題になるのではないかなと思えたことが、今回参加した私の中での成果でした。

 

 

茂木先生・鈴木先生ありがとうございました!!

 

 

茂木誠・鈴木悠介先生の世界史アクティブ・ラーニング公開授業に参加してきました(1)

 皇居の隣というリッチで資本主義な香りがするビルで駿台予備学校の茂木誠先生が主催された「世界史アクティブ・ラーニング公開授業」に参加してきました。学びエイドの鈴木悠介先生も模擬授業をしてくださり大変贅沢な時間でした。参加者も高校生から教員まで多様でした。九州から飛行機でこの授業を受けにやってきた高校一年生がいてバイタリティに圧倒されました。(笑)高校生と教員が同じアクティブ・ラーニング型授業で討論する光景は、滅多に見れないです。

 鈴木先生・茂木先生それぞれ100分の公開授業でした。参加者が実際に授業を受けるというのもユニークですね。

 

最初は、鈴木先生が、十字軍を題材に通説を疑う授業を展開していただきました。

 

基本的な流れ

①ペア学習で前時の確認 (20分)

②課題の提示

③個人活動 (5分)…個別に課題を解く

④ペア学習(15分)…個別課題で解いた課題を3分割し、グループをA・B・Cに分かれてそれぞれをペアで検討

⑤ グループ学習(15分)…各グループ(6人)で課題のまとめを作る

⑥ディスカッション(15分)…全体で検討

⑦振り返り

 

  という流れでした。前時の確認に20分かけてますが、こういう場では仕方がありません。考察するための基本的な知識を確認しておかなければ。実際に授業する場合は、もっと短くてもいいはずです。

   

   その後の流れを見れば分かるように知識構成型ジグソー法を意識された模擬授業でした。参考文献に永松靖典『歴史的思考力を育てる 歴史学習のアクティブ・ラーニング』があるので本書から形式は参考にされたのでしょう。知識構成型ジグソー法に興味がある方はご一読ください。AL型の授業として洗練されていて誰にでも使いやすい教授法です。

 

  知識構成型ジグソーでいうエキスパート資料は、十字軍研究者による通説批判が箇条書きで示されたものです。たとえば、「クレルモン宗教会議において、イェルサレムの回復がどの程度の重要性を持っていたかは、研究者の間でも意見が分かれている」などの通説批判が8点あげられました。これを参考に、2018年京都大学の十字軍の論述問題の解答例の通説として、書き換えていくものでした。鈴木先生もおっしゃっていましたが、課題の難易度は高いです。想定も中上位層です。授業目的が、「通説を再考する」なので難易度も高くなるのは仕方がないでしょう。

 

 

  私は、知識構成型ジグソー法を何度か実践していますが、自分がしっかり受けるのは初めての経験でした。ペア学習で「ここがよくわからないんですよね」「これどういう意味?」と相互に言い合いながら、仮説を互いにつぶやく。それを修正しながら課題に取り組む。不思議としだいに資料を広い視点から考えるようになるんですね。最初は、エキスパート資料だけを検討していたんですが、しだいに①で確認した十字軍の通史も参照してました。多くの要素を同時に考慮しつつ思考しているような感覚があり、楽しかったです。

 グループ学習では、別の資料を考察していた人たちと一つの解答を作り上げていくわけですが、1グループ6人は多かったです。6人の考えをまとめるのは、大変です。グループワークは、3・4人がちょうどいいですね。

 

 

さて、 鈴木先生は、「通説を再考させる」ことを本時の目的に設定されていました。その目的から本授業を考えると、ディスカッションでどのグループも通説の問題点を的確に理解していたので、目的は達成していたと考えてよかったと思います。

    その後の質疑でフロアから「通説を批判させると教科書を信用しなくなるのではないか」という質問が出ました。「教科書ってダメなんだー」と思わせる授業は、問題がありますから当然の質問です。鈴木先生は、今回の授業後に追加の課題を考えていました。教科書を丁寧に読み、研究者らの通説批判の観点がすでに教科書に取り入れられているのを確認する課題です。この終わり方は、素晴らしいものだと思います。私もトゥール・ポワティエ間の戦いで教科書の記述批判をする課題を作ったことがありますが、教科書の信用を落とすだけではということで実践を見送りました。鈴木先生の提案は、この問題を回避し、生徒が、一言一句、敏感に読解する力がつきそうですよね。

   これを参考に教材をさっそく作ってみたいです。

 

茂木先生の授業の感想は、また後日。

鈴木先生、ありがとうございました。